私は数年前まで企業でよく通訳の仕事もしていました。ある企業で私を「栗原君」と呼ぶ人がいました。「栗原君」と呼ばれることは構わないのですが、英語を教える時は「先生」と呼ばれ、精密機械の専門用語を覚えて同時通訳をする時は「栗原君」と呼ばれることに納得できませんでした。
この世の中は様々な職業に就いている人がいるからこそ成り立つのであり、職業によって「先生」と呼ばれたり、呼ばれなかったりするのは差別だと思うようになりました。
私は英語を教えることで生活しています。私は自営業者の一人にすぎません。私は受講者から料金をいただき、その料金に従ってサービスを提供しているだけです。よって私と受講者は対等な立場です。受講者が講師を「先生」と呼ぶ必要は全くありません。
近所の小中学校が地元住民のために発行した便りが、定期的に回覧板とともにまわってきます。この便りを読むと、教職員に「先生」という敬称が付いていました。「本校の教職員を先生と呼びなさい」と近隣の住民に呼びかけているように見え、私はこのことを地元の小中学校に抗議しました。以前近所の中学の校長はHPに、「保護者や地域の皆様の協力をいただきながら、信頼される学校づくりに尽力」と書いていましたが、私は佐野市民として、非常に残念に思います。
「教師は先生と呼ばれて当たり前」という考えを持っているから、地元住民向けの便りにも「先生」という敬称を付けて、間違いだと気がつかないのです。「先生」と呼ばれて、恥をかくことはあっても、得をすることはありません。「先生」とは人間として大切な常識と謙虚さを失わせてしまう危険な言葉です。
教育現場では、生徒に「〇〇校長」・「〇〇教頭」・「〇〇教諭」と呼ばせるのが適切だと思います。生徒に一律で「先生」と呼ばせるのではなく、「組織には様々な役職に就く人がいるからこそ成り立っている」と教えることも大切です。
「校長先生」や「教頭先生」など、役職名に「先生」という敬称を付けることは、文法的にも間違っています。例えば 佐野市民が市長に「岡部市長」と呼びかけたら失礼でしょうか。市民は市長を「岡部市長先生」と呼ばなければいけないのでしょうか。
教師が生徒に「私たちのことは先生と呼びなさい。それ以外の職業に就く人はさん付けでいい」と指導することは決して正しい教育ではありません。こんな教育をしたら、他の職業に従事する人に失礼です。教師は「様々な職業に従事している人がいるからこそ、この世の中は成り立っている」と教えるべきです。「自分を先生と呼ぶように」と生徒に仕向けることは、教師の傲慢です。「実るほど首を垂れる稲穂かな」という名言があります。教育者こそ「先生」と呼ばれてはいけないのです。「先生」と呼ばれることに生き甲斐を感じている人は、即刻辞職すべきです。
警察白書によると、東日本大震災の際、殉職した警察官は25人で、行方不明の警察官は5人だそうです。警察官は「おまわりさん」と呼ばれることはあっても、「先生」と呼ばれることはありません。教師になれば、1年目から「先生」と呼ばれます。一般企業であれば、新入社員が「先生」と呼ばれることはありえません。市民の安全を守るため、命がけで職務を遂行する警察官は「先生」と呼ばれず、何も分からない新米教師は「先生」と呼ばれることが理解できません。社会人1年目から「先生」と呼ばれたら、彼らの人生を狂わせてしまうことにもなりかねません。大学を卒業してすぐに教師になるのではなく、数年一般企業に勤めるべきです。
私は特に初めて会う方に、「私を先生と呼ばないでください」とお願いしますが、今でも私を「先生」と呼ぶ人がいるのは事実です。私は他の人を「先生」と呼ぶのも嫌いで、自分が「先生」と呼ばれるのも嫌いです。「先生」という言葉は死語になればいいと思います。私の名前は「先生」ではありません。「栗原さん」か「直樹さん」と呼ばれた方が、ずっと嬉しいのです。私は受講者と対等な立場でいたいのです。