2012年3月15日木曜日

「先生」は差別用語

私は10年以上英語講師として仕事をしており、4〜5年前までは「先生」と呼ばれることに違和感はありませんでしたが、あることがきっかけになり、「先生は差別用語」だと思うようになりました。

私は数年前まで企業でよく通訳の仕事もしていました。ある企業で私を「栗原君」と呼ぶ人がいました。「栗原君」と呼ばれることは構わないのですが、英語を教える時は「先生」と呼ばれ、精密機械の専門用語を覚えて同時通訳をする時は「栗原君」と呼ばれることに納得できませんでした。

この世の中は様々な職業に就いている人がいるからこそ成り立つのであり、職業によって「先生」と呼ばれたり、呼ばれなかったりするのは差別だと思うようになりました。

私は英語を教えることで生活しています。私は自営業者の一人にすぎません。私は受講者から料金をいただき、その料金に従ってサービスを提供しているだけです。よって私と受講者は対等な立場です。受講者が講師を「先生」と呼ぶ必要は全くありません。

近所の小中学校が地元住民のために発行した便りが、定期的に回覧板とともにまわってきます。この便りを読むと、教職員に「先生」という敬称が付いていました。「本校の教職員を先生と呼びなさい」と近隣の住民に呼びかけているように見え、私はこのことを地元の小中学校に抗議しました。以前近所の中学の校長はHPに、「保護者や地域の皆様の協力をいただきながら、信頼される学校づくりに尽力」と書いていましたが、私は佐野市民として、非常に残念に思います。

「教師は先生と呼ばれて当たり前」という考えを持っているから、地元住民向けの便りにも「先生」という敬称を付けて、間違いだと気がつかないのです。「先生」と呼ばれて、恥をかくことはあっても、得をすることはありません。「先生」とは人間として大切な常識と謙虚さを失わせてしまう危険な言葉です。

教育現場では、生徒に「〇〇校長」・「〇〇教頭」・「〇〇教諭」と呼ばせるのが適切だと思います。生徒に一律で「先生」と呼ばせるのではなく、「組織には様々な役職に就く人がいるからこそ成り立っている」と教えることも大切です。

「校長先生」や「教頭先生」など、役職名に「先生」という敬称を付けることは、文法的にも間違っています。例えば 佐野市民が市長に「岡部市長」と呼びかけたら失礼でしょうか。市民は市長を「岡部市長先生」と呼ばなければいけないのでしょうか。

教師が生徒に「私たちのことは先生と呼びなさい。それ以外の職業に就く人はさん付けでいい」と指導することは決して正しい教育ではありません。こんな教育をしたら、他の職業に従事する人に失礼です。教師は「様々な職業に従事している人がいるからこそ、この世の中は成り立っている」と教えるべきです。「自分を先生と呼ぶように」と生徒に仕向けることは、教師の傲慢です。「実るほど首を垂れる稲穂かな」という名言があります。教育者こそ「先生」と呼ばれてはいけないのです。「先生」と呼ばれることに生き甲斐を感じている人は、即刻辞職すべきです。

警察白書によると、東日本大震災の際、殉職した警察官は25人で、行方不明の警察官は5人だそうです。警察官は「おまわりさん」と呼ばれることはあっても、「先生」と呼ばれることはありません。教師になれば、1年目から「先生」と呼ばれます。一般企業であれば、新入社員が「先生」と呼ばれることはありえません。市民の安全を守るため、命がけで職務を遂行する警察官は「先生」と呼ばれず、何も分からない新米教師は「先生」と呼ばれることが理解できません。社会人1年目から「先生」と呼ばれたら、彼らの人生を狂わせてしまうことにもなりかねません。大学を卒業してすぐに教師になるのではなく、数年一般企業に勤めるべきです。

私は英語講師なので、できるだけ日本語の新聞と英字新聞を読むように心がけています。英字新聞を読むと、まだまだ知らない単語が多いことを痛感します。私もまだまだ英語を勉強する立場です。教師の仕事は「生徒に真摯に学び続ける姿を見せること」だと思います。

私は特に初めて会う方に、「私を先生と呼ばないでください」とお願いしますが、今でも私を「先生」と呼ぶ人がいるのは事実です。私は他の人を「先生」と呼ぶのも嫌いで、自分が「先生」と呼ばれるのも嫌いです。「先生」という言葉は死語になればいいと思います。私の名前は「先生」ではありません。「栗原さん」か「直樹さん」と呼ばれた方が、ずっと嬉しいのです。私は受講者と対等な立場でいたいのです。




6 件のコメント:

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  3. こんにちは。たまたま拝見しました。これのシステムをよく知らないのですが、これまでコメントはなかったのか、あるいは削除されたのか、と不思議に思っています。
    いささか古典的ですが、私の考えを書かせていただきます。
    いきなり失礼ですがご経歴などからすると、きっと学校や教師との深刻ないきさつをお持ちだったのでは、と思います。
    たしかに不適格な教師はいます。でもそれは先生と呼ばれるからではなくて、人や生徒に対する敬意、尊重の欠如のためではないでしょうか。

    栗原さんが教える側として、相手に対して対等と考えるのは謙虚さで良いことだと思います。教師も謙虚さを持つべきであり、学校に対してそういう主張自体はあって良いと思います。
    しかし、生徒がこどもが教師を○○教諭と呼び教員に対等意識を持って、人に対する敬意が育つでしょうか。

    皆お互いに対等五分五分というのは理屈上は正しいのかもしれません。
    しかし、それぞれがそう思っているうちに、それぞれの言い分から争いになるのが人の常です。
    人間には人に対する敬意、尊重とか、自分自身の謙虚さはあるべきだと思います。それによってようやく初めて、結果としての対等をもたらすことができるのではないでしょうか。

    そういう敬意や謙虚さというのは、ホモサピエンスに自然に身につくものでしょうか。私自身はいわば性悪説であり、小さいこどもにはそれらはあえて教える必要があると思います。
    幼い子にとってそれらの感覚を身に付ける対象(材料?)は、まずは「せんせい」という存在ではないでしょうか。いわば大きなしつけのひとつだと思います。(そこに親という立場も関わると思いますが端折ります。)

    もうひとつの理由は、こどもに対して限らず、大人同士でも教える学ぶ師弟関係の心構えのことです。
    おかねを払えば対等、という考えはあり得ますが(教える側はそういう気持ちでも良いと思う。)自分を何らか高めてくれるものへの敬意です。
    ひいては自分を高めることへの価値観。お金に換えられない価値、と言ったらきれい過ぎでしょうか。
    実際に世の中はいま知識も人間関係も平坦化の方向に流れています。平坦化は良いことでもありますが、良いことだけかどうか。

    不適格な教師の存在はあるにしても、栗原さんのお考えで教師全体の位置を引きずり降ろすことが、世の中全体として良い結果になるのかどうか。
    「先生」ということばをなくす平坦化は、世の中から敬意や謙虚さ自体を無くすことではないか、と私は思います。
    そうなった場合、それはそれなりにやはり問題のある教師が、もしかすると今より多く作られてくるのではないでしょうか。

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  5. 「先生は差別用語」 の コメント、ありがとうございました。 これまでに、このページに関してのコメントは、しのあさんのものだけで、僕が消したコメントはありません。たくさんの方からのご意見を歓迎します。

    このブログにも書いた通りですが、まず僕が問題だと思ったのは、職業によって「先生」と呼ばれたり、呼ばれなかったりすることで、これは差別だと感じました。僕がこのような考えを持つようになったのは、35歳の頃なので、僕の子ども時代の経験はあまり関係がなく、自分の子どもが生まれる前です。

    年上の人に敬意を示すことは僕も賛成です。小学生が僕と話す時に、友達と話す時のような話し方は困ります。

    「 僕は受講者と対等な立場でいたい」と書きましたが、僕は我が子に、「教師と対等な立場でいるように」と指導したことはありません。我が子は担任の保育士や教師を、僕の前では、「◯◯さん」と呼ばせる教育はしています。

    「◯◯教諭」と生徒が教師をこのように呼んでも、対等な立場云々ということではなく、「◯◯教諭」というのが正式な呼び方です。「教諭」という言葉を知らない小学6年生がいたのは、学校がきちんと指導していないからです。

    教師や医師など、普段「先生」と呼ばれる職業に就く人とおまわりさんなど、「先生」と呼ばれない職業に就く人がいることを、子どもの時から指導することは、決して子どものためにはならないと思います。「どんな職業に就いている人でも、真面目に働いている人は、社会に貢献しているので、立派なんだよ」と教師は指導すべきです。 「物事を教えてくれる人には敬意を」というお考えは理解できますが、教師や親がそのような教育をしてしまうと、「物事を教える以外の職業に就く人は、先生と呼ばれないから、感謝する必要もない」と子どもは感じてしまうのではないかと思います。

    教師が「先生と呼ぶように」指導することは、教師の傲慢だと思います。長男が小学校に入学する前から、僕は学校側に「教師を先生と呼ぶのはやめてください」と要請してきました。学校のホームページで、自らの職員に「先生」という敬称をつけ時には、度々学校側に注意してきました。つい先日、保護者向けの案内が配られましたが、ここにも職員に「先生」という敬称がついていました。 特に学校の教師であれば、子どもに常識を教えるのが仕事ですが、「先生」と呼ばれることで、人間として大切な常識が狂ってしまいます。僕は親として常識のある方に、我が子の教育はお願いしたいのです。

    「先生」と呼ばれることで、恥をかくことはあっても、得をすることはありません。 やはり僕は「先生」という言葉は死語になればいいと思います。

    「教師全体の位置を引きずり降ろす」などという考えは全く持っていません。この世の中に教師は必要で、是非立派な人に教師になってほしいと思います。

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    1. さっそくのご返事をありがとうございました。

      それほど考えの違いはないようで、うれしく思いました。
      私の高校の頃に「教師と生徒は対等だ」と言っていた級友などもいて(背伸び年頃ではあります)(ひとつの考えとは思いましたが)それとは違うのですね。
      簡単に言えば、「職業に貴賎なし」ということだと思います。
      もちろん私もそれには賛成で、買い物ではこちらもお礼を言うし、子供たちにもそうさせました。
      以前に中国にわずか行った時、かなりのお店が何も言わずに物々交換する習慣を見て、これはたしかに対等なのだろうけれど、何かと争いが起こるのではないか、と思いました。

      そうなると、あとは先生ということばの意味、感覚とか対象ということになるかと思います。
      これもたまたま聞いたことですが、中国語では「先生」ということばを日本よりも広く使うようです。そういう背景の中でならば、栗原さんとしても抵抗が少ないのでしょうか。
      むしろ日本でも、教師や医師への「先生」をやめるよりも、「先生」の範囲を広げるのがスジのような気もします。

      しかし現実の感覚として、
      「せんせい」ということばには、なのはなたんぽぽつくしんぼみたいなほのぼの良い味も感じるわけで、(私だけでしょうか?)
      それに対する馴染み、好感は、多くの人が持っているのではないかと思います。
      ほかのおとうさんおかあさんも今後賛成が増えるかどうか??という感じがしますし、学校が、はいごもっともです、と全面的に変えるだろうか??と思います。

      とすると現実に、栗原さんご一家と学校との関係がどうなっているのか、今後どうなっていくか、が心配でもあります。こどもさんが板挟みで困るのではないか、とか。お節介ですが。
      ときどき言って問題提起するのは歓迎されるが、あまりいうと嫌われる、というのはよくあるパターンではあります。
      もちろんノーベル賞の多くに、初めは少数派で嘲笑もされながら努力を続けた、というような話はありますが。

      また、ますますお節介ですが、radicalなご意見のような(前回に私が思ったような)印象を与えると、英語ご指導の申込みも、ちと引いてしまう人がいるのではないか、とか気になります。
      まあそんな生徒はいらん、来るな、ということかもしれませんが。。。

      まことにいらぬ口出しで失礼しました。

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